“毛ガニ”さんのウィンド・チャイムって本当に素晴らしいんですよ」
と、ayako(HaLoのヴォーカル&作詞)は言うのだった。
野沢“毛ガニ”秀行といえば、サザンオールスターズのメンバーでもあるパーカッショニストだ。サザンのさきの年越しライヴでもたしかにウィンド・チャイムが置かれているのはこの目で見たけれど、彼がその名手であるとは知らなかった。第一、あの楽器に高度なテクニックなどというものがあるのか。ぼくだって何度か触れてみたことがあるけど、簡単に音は出るゾ。チロロロロ〜ン、って、こう、指で撫でるだけで……。
「それがね、違うんですよ。音色が」
と、ayakoは続ける。
そうか、〈色〉なのか。
単純な音、ではなくて、そのひとだけが出せる、音の〈色〉。
もっとも、ayakoとて、世界中のウィンド・チャイム演奏家の音をすべてサーチしたうえで野沢をキャスティングしたわけではない。たぶん、風が肌を撫でるように、その「風の音」が耳を撫でていったのだろう。コンビニエントな流行歌にはさして関心がないayakoだが、その数少ない機会のなかで、その「風の音」だけはたしかにつかまえていたということか。そうして、忘れずに自分の音の絵の具箱のなかにしまっておいたということなのだ。
また、ayakoは写真家でもあるから、音色の捕獲の際には、耳だけでなく目も使う。
1曲めの「川」はスウェーデンのニッケルハルパ奏者ヨハン・ヘディンの曲だが、ニッケルハルパって一体何だ? もうその語感だけで興味津々となる。急いで、若林忠広著『民族楽器大博物館』をひもとくと、おお、これか、何たる異様なフォルム! スウェーデン語でニッケルはキイ(鍵)、ハルパはハープで、すなわち鍵盤ハープ、と書いても全く映像は浮かばないはずだ。無骨なヴァイオリンのようなボディ、その上に乗っかった鰐のあばら骨のような鍵盤、さらにその上を16本の弦が走る。そうして、その弦たちを弓が擦る。
ヨハンがスウェーデン大使館で小規模のライヴを行なった際、ayakoはその楽器を間近に見、ヨハンと知己をを得た。「あの楽器、見ちゃったら、追いかけたくなりますよ」などと言いつつ、しかし! 本作のこのトラックに、当のニッケルハルパは使われていないのである。何たる異様な贅沢さ!
贅沢といえば、このトラックでは、前述の野沢のウィンド・チャイム、フィンランドのマリア・カラニエミ(ヴァルティナのアルバムなどに客演している)のアコーディオン、『blue』からのおなじみケイト・セント・ジョンのオーボエ(今回彼はオーボエのみの参加)、アラン・クラークのハモンド・オルガン、アッサン&サンバのジャバエ兄弟(ユッスー・ンドゥールのレコーディング・メンバー)のサバール=セネガル太鼓、といった地球をまたにかけたセッション&ダビング、つまり、“音の色の塗り重ね”がなされている。使われなかったニッケルハルパは、その厚い色の重なりの下に、幻の色として存在しているわけだ(ヨハンが弾く実際のその音は、「晴れますように」で聞けます)。
HaLoの“音の色”を探す旅は、空間だけでなく、時間もまた超越していく。2曲めの「灯りが消えたら」のオリジネイターである愚のメンバー、松田幸一は4曲めの「性−さが−」に参加している。しかも、愚ではベース奏者であった松田が、ここではバス・ハーモニカを吹く。
ayakoは、松田が奏でるその楽器の音色と楽器そのもののルックスにまたしても一目惚れしたのではないかと推測するが、ayakoのそんな“無意識”を意識的にコントロールし、凡庸なプロデューサーだったら「灯り…」のほうに配するであろう松田をここに配したところに、藤井曉(HaLoのプロデューサー)の手の込んだエンタテインメント精神をみるのは私だけではあるまい。
この「性−さが−」のメロディを書いたのは香港の劉以達(タツ・ラウ)。彼は王菲(フェイ・ウォン)などにも曲を提供しているロック・ミュージシャンだが、ザ・芸能界的な香港においては異彩を放つ存在だ。情熱的な中華バラードではなく、どこか冷たくダークな世界を身上とする。だが、同じ冷んやりとした感触といっても、これは、やはり森と湖の地のものではなく、雪の降らない亜熱帯アジアのものなのである。
「マンゴープリン」とayakoが言う。じゃあ、「水ようかん」とでも返しておこう。そんなアジア的な冷んやり感は、沖縄ルーツの「てぃんさぐの花」などにも流れている。熱さからは遠く、そのくせ少しだけ汗ばむようなこんな島唄をぼくは聞いたことがない。
どこにでもある、と同時に、そこにしかないyellowという色。それらがHaLoという筆によって混ぜ合わされたとき、どこにもなかったyellowがうまれた。
2001年1月 大須賀 猛